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2024/03/08 15:59
昨年11月に奈良文化財研究所を訪問させていただいたところ、
平城宮跡資料館で研究発表を兼ねたミーティングに参加させて
いただけることになり、行ってきました。
目的は上のような木簡に書かれた 煮堅魚、堅魚、煎汁 に関する情報収集です。
(上の写真は2023年11月に博物館で撮影したものです。)
堅魚とは、かつおのことです。
奈良時代、静岡県は駿河国とか伊豆国とかに分かれていました。
養老律令が制定された時、租庸調の調(土地の特産品)として堅魚が指定されてたため
駿河国や伊豆国、遠江国などから収められていたことが木簡に書かれています。
志摩や丹後、阿波からの木簡も出土しているようですが圧倒的に静岡県が多いのが特徴で、
駿河湾の中では駿河郡から伊豆郡が多く、駿河湾西部では益津郡(焼津)が目立っています。
煮堅魚 ・・・ かつおを煮てから干し固めたもの
堅魚 ・・・ 生のかつおを干し固めたもの
煎汁 ・・・ かつおの煮汁を煮詰めて調味料にしたもの
特徴的なのは、煮堅魚と書かれいる木簡は静岡県に集中しているということ。
生のかつおを干すよりも技術のいる加工方法で、現在のかつお節の原型ともいえるものです。
問題は、どのような道具でかつおを煮ていたのかとか、加工の手順とか
今でいう品質管理をどうしていたのかということです。
上の写真は静岡県東部で出土されたものです。
当時の人たちは、このような土器を使ったのではないかと言われています。
もう一つ、話題になっているのが壺Gと呼ばれている須恵器の壺。
藤枝市に助宗窯と呼ばれていた須恵器を専門につくっていた窯があって、
そこで作った壺Gに煎汁(いろり・かつおの煮汁)を入れて運んだといわれています。
壺Gは、伊豆でもつくられていたようですが強度や形状などは助宗窯のものの方が
良いとされています。
助宗窯で作られた壺Gに煎汁を入れて都に収め、その後、他の物を入れて各地に広まり
幾つかの地域で似たような壺がつくられるようになったのではないかと言われています。
焼津市や藤枝市には延喜式に出てくる焼津神社、那閉神社、三輪神社なども複数あり、
焼津には古代万葉の道(昔のメインストリート)が通っていたことがうかがえます。
かつお・まぐろの水揚げが日本一で、今も水産加工業が主要産業になっている焼津市の
ルーツともいえる煮堅魚や煎汁のことについて想像を膨らませ、情報収集できるのは
ロマンがあって楽しいです。