2023/03/30 16:44

ハンガリーの歴史

ハンガリーはヨーロッパの中央に位置する内陸国で、オーストリアやスロヴァキア、クロアチアなど7カ国に囲まれています。国土面積は日本の1/4位で9.3万㎢、人口は約970万人です。

ハンガリー人の起源はウラル山脈南麓にいたアジア系のマジャル人という騎馬民族で、良質な牧草を求めて何百年もかけて現在の地に移動してきました。

ハンガリー東部に広がるプスタは、マジャル人が生活していた大平原。その一部であるホルトバージ国立公園はヨーロッパで唯一野生馬が生息している地域です。この地で伝統的な家屋に住み、家畜を飼育するという牧畜の風景が見られることから1999年に世界遺産登録されました。

その長い歴史の中では他民族との抗争もたびたび繰り広げられ、騎馬民族ならではの戦術やマジャル七部族の「血盟」という団結による強力な武力は、ヨーロッパ人達にとって非常に恐れられました。

そして、紀元9世紀(896年)に「血盟」の盟主だった首長・アルパードによってマジャル国が誕生しました。当初はキリスト教国家ではなかったマジャル国でしたが、アルパードの子孫・聖イシュトヴァーン王の働きかけにより、キリスト教を受け入れることについて七部族の意思統一がなされ、西暦1000年にキリスト教王国としてのマジャル国(ハンガリー)が誕生したのです。

その後、歴代国王によって統治されてきたものの周辺国から攻撃を受けることも多く、17世紀末にはハプスブルク帝国に長年圧政されることとなりました。

ハプスブルク家が弱体化した後の1873年、ハンガリーの首都ブダペストは「ブダ」、「オーブダ」、「ペシュト(ペスト)」の三街の統合により誕生しました。この地域は古代ローマ帝国の属州パンノニアの駐屯地であり、昔から富裕層の温泉保養地だったことに由来します。現在のブダペストは丘陵のブダ地区と平地のペスト地区が、雄大なドナウ川とともに美しい景観を作り出していることから1987年に世界遺産登録されました。

ヴィシェグラードは13世紀に築かれた山の頂にある要塞と、ふもとにある王宮からなる城砦で、城には200年間にわたり「聖なる王冠」が保管されていました。この要塞の眼下にはドナウベントを見晴らす雄大なパノラマが広がっています。

グヤーシュはハンガリーの国民食

ハンガリー人にとって自国を代表する料理として一番に挙げられるグヤーシュ。二番目はハラースレー(川魚のパプリカ煮込み)で三番目はトルトットカーポスカ(発酵キャベツを使ったロールキャベツのパプリカ煮込み)です。

ハラースレーやトルトットカーポスカは、日本人にとって馴染みのない食べ物ですが、グヤーシュの認知度が高まる17世紀まではハンガリーのシンボルといえばキャベツ料理で、当時、トルトットカーポスカは「ハンガリーの紋章」とされていました。

グヤーシュは、元々プスタ(大平原)で飼われていた牛(グヤ)と牛飼い(グヤーシュ)に由来しているので元々は牧夫の食べ物でした。ただし、初期のグヤーシュは牧夫が仕事をしている間、ボグラーチという金属製の鍋を焚き火に掛けて、肉とタマネギを塩水で煮るといったものでパプリカは入っていませんでした。

パプリカは15世紀末に新大陸からもたらされた調味料で、これを加えて広めたのは農民達だったようです。

そして、18世紀末になってから貴族達が隣国との違いを表そうとハンガリー独自の文化を探したときに着目したのがグヤーシュでした。
これは同君連合国家群だった時代からオーストリア帝国時代まで、ハプスブルク家に実質支配されていたのが理由です。ハンガリー人の愛国主義を高めて主権を取り戻そうと、伝統的な食事をはじめ民族衣装や貴族が着た服装(Diszmagyar)を採り上げて、ドイツ語圏(ドイツやオーストリア)とマジャル語圏のハンガリー文化を区別したのです。

このような背景もあって1848年に起こったハンガリー革命の後には日常食だったグヤーシュは国民が身分を超えて自国を代表する料理として語るようになり、遂に結婚披露宴の定番にまでなったのです。

カラフルなバラや草花が愛らしいハンガリー刺繍は、カロチャの刺繍が原点です。民族衣装やテーブルクロス、花瓶敷きには必ずパプリカがデザインされ、代々母親から娘へと大切に伝えられてきた緻密な刺繍が施されます。

またカロチャはパプリカを最初に栽培したとされるセゲドに匹敵するパプリカの産地です。秋には農家の軒下には真っ赤なパプリカが束になって吊されています。

パプリカ(唐辛子)は南米原産で15世紀末の新大陸発見とともにヨーロッパにもたらされました。ハンガリーには収集家が持ち込んだようですが、食用として認知されたのは16世紀以降のことでオスマン帝国(トルコ)を経由して南から伝えられてきたことから、トルコ胡椒とかインド胡椒と呼ばれました。これが普及したのは辛いパプリカがコショウよりも安く代替品にできたからです。マジャル語のパプリカもスラブ語のペッパー(スラブ語でPiper)が由来とされています。

その後、穏やかな気候の南部で農民達が辛いパプリカから種を取り除いて粉末した調味料を売るようになり独自の調味料として広まりました。更に品種改良によって、甘みのあるパプリカパウダー専用品種 Capsicum annuum L. var longum  が作られるようになったのです。

■商品紹介:グヤーシュ 300g